こんにちは。当院のホームページにお越しくださいましてありがとうございます。院長の『石塚 進』です。
少し長くなりますが、当院と私の紹介をさせていただきます。当院は平成11年より三郷市戸ヶ崎で開業させていただきまして、これまで20数年間で延べ23万人の患者様を診させていただきました。
私は昭和50年に茨城県猿島町(現 坂東市)で産まれました。父、母、姉、祖父、祖母に囲まれてすくすくと力士のように育ちました。よく小さいころに「いい体格をしているな。」と言われたのをずっと誉め言葉だと思っていました。
小学校低学年の時は音読が上手だと言われ「すぎのや(猿島町の行政区の地名です。)の怪童」と言われた時もありました。運動は苦手で、かけっこはいつも最下位でした。
中学生の時は野球部に所属し、かなり体を鍛えたため運動が少しずつ得意になっていきました。この頃に「運動神経というのは使わないと開花しないものなんだな。」というのが分かってきました。
高校生になると、中学校の野球部の先輩の誘いがあって空手部に所属しました。空手の練習はとても大変で、暑い日には倒れた時もあったほどでした。しかし、その努力もあって茨城県、県西大会では個人戦2位、同県大会団体戦ではベスト8になることができました。運動神経も更に発達し、50m走では陸上部、サッカー部の次に早い6秒9というタイムをたたき出しました。
そして高校生の時に体育の授業でバスケットボールをしていてジャンプして着地した際に左足首を捻って歩けなくなり、看護師の姉の勤める病院に運ばれました。そこでリハビリテーションに勤務されていた伊賀先生(後の協栄接骨院初代院長)との運命の出会いがありました。私より縦も横も二回りほど大きい先生で、その知識と技術に度肝を抜かれました。
その後、色々とお話をさせていただいて柔道整復師という仕事に惹かれ、父と母の説得にわざわざ家まで来ていただきました。
倍率8倍の狭き門を通り、仙台市にある赤門鍼灸柔整専門学校に入学しました。専門学校では膝関節の研究サークルに入って研鑽し、授業では特に生理学と運動学に興味を持って勉強いたしました。
3年生の時に現場での実習が必要だったため、伊賀先生のおられたリハビリテーションを訪ねると、既に伊賀先生は新宿区の協栄接骨院に赴任していたため、西崎先生が対応してくださいました。これも運命の出会いでした。西崎先生は業界のことに精通し、私の面倒をとても親身に見てくださいました。
平成9年、柔道整復師免許を取得し、私のほねつぎ人生が始まりました。西崎先生の指示を仰ぎ高輪、横浜、大宮などで経験を重ね、荒川区尾久の接骨院にて院長として迎えられました。ここでは、接骨院全般の業務内容や技術を学びました。
経験を重ねたうえで、その後協栄接骨院の2代目院長を務めることになりました。その当時協栄接骨院はスポーツ施設との提携の先駆けで、地方からプロを夢見て上京してきた若者たち、チャンピオンを狙うボクサーたち、正道会館やシュートボクシング、プロレスの格闘家の方たち、和気あいあいとしたトレーナーの皆様、マスコミの皆様、タレントの皆様、技術を持ったスタッフたちに囲まれて華やかな宝物のような時間を過ごすことができました。ここでスポーツ外傷は一通り経験し、運動学を臨床に適用し、また他の院では経験できないほどの数のテーピングをこなして、テーピング技術を得ることができました。
そして平成11年、西崎先生から声がかかり病気療養に入られた先生の代わりに埼玉県三郷市に行ってくれと言われ当整骨院に赴任いたしました。戸ヶ崎の方たちは穏やかで優しい方がとても多く、買い物も便利で、すぐにこの地に慣れ親しむことができました。体重も元に戻りました。早や20数年、巡り合わせていただいた患者様に本当に感謝しております。これからも精いっぱい頑張りますので、よろしくお願いいたします。